【対談記事】内田 雅章 × 川原 猛
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成長企業発掘人・内田雅章氏と、弊社代表・川原猛の対談記事です。 (書籍 『すごい!ビジネスモデル2』 掲載)
社会から信頼されるポスティング事業を目指して
内田:トーカンエクスプレスという社名はわかりやすいですね。
ポスティング、つまり投函業務を代行する、しかも特急で、という意味ですよね。
川原:すぐにわかっていただけてうれしいです。
カタカナにしたのでピンと来ない人も多いんですよ。
住宅各戸にチラシを投函する仕事があることは皆さんご存知ですが、その仕事の実態について気にされたことはあまりないと思います。
当社はポスティングをもっと社会的に認知・評価・信頼される事業にしていきたいと努力している最中です。
内田:現在は本社がある西新宿(東京)を中心に、神奈川県、千葉県、埼玉県でのポスティング事業を展開されています。
創業は2004年、何もないところから始めて現在の年商は5億7000万円、ゆくゆくは10億円を目指しておられるそうですね。
川原:ポスティング事業は政府の産業別統計の種別として載らないようなニッチな業界です。
でも2007年にLLP日本広告配布事業協会、2016年に全日本ポスティング協会ができ、自主規制やルールづくりによって少しずつですが認知されるようになってきました。
私は両協会の理事を務めていますが、まだまだ信頼向上のためにやるべきことは多いですね。小遣い稼ぎで始めたポスティング
内田:ポスティング事業を始めたのは、どんな動機からだったんですか。
川原:学生時代はパイロット志望で航空会社を受験したのですが、あと一歩のところで夢破れてしまいました。
結局、一般企業に就職したものの、仕事に身が入らない毎日を過ごしていました。
そんなとき、薬害エイズ訴訟の報道がきっかけで弁護士の仕事に興味を抱くようになり、気づいたら会社に辞表を出していました(笑)。
それが26歳のときです。
東京を離れ、実家のある京都で司法試験予備校の門をたたき、2年間、ゼロから法律を学んだのですが、現実はそう甘くはありませんでした。
受験に失敗した私は再び上京して彼女(現在の妻)の部屋に居候しながら司法試験の勉強を続ける一方、そのときに小遣い稼ぎで始めたアルバイトがポスティングだったのです。
内田:ポスティングの仕事は楽しかったですか?
川原:勉強の合間の気分転換、運動不足解消にいいと思って始めたのですが、メンタル的にはきつい仕事でした。
住宅街などを一軒一軒回ってポスティングしていると、「何をしているんだ」という目で見られる。郵便配達や新聞配達なら「ご苦労様」と言ってもらえるところなんですがね。
ただ、当時は3〜4人が1台の車に乗ってチームでポスティングするスタイルだったんですけど、移動中の車内がとにかく楽しかったんです。
役者やミュージシャン、格闘家など、夢見る若者が多く、車内はいつも遠足のバス状態でした(笑)。
いつしか勉強中心からバイト中心の生活に逆転してしまい、彼女にも愛想をつかされ、ついには部屋も追い出される始末でした。
そのうちポスティングで小銭が貯まると、東南アジアやインドを放浪するようになり、金が尽きると帰国してポスティングといった自堕落な生活をするようになってしまいました。顧客にもっと満足してもらいたいという思いで独立
川原:そんな「ポスティング&バックパッカー生活」を続けるうち、いつしか30歳を超えていました。
ふと周りを見ると同世代の人々は背広を着たビジネスマンばかり。
それに気づくと、何だか引け目のようなものを感じていました。
そんなときに、バイト先の社長から社員にならないかと誘われたんです。
それなら、と社員になったんですが、小さな会社だったので、営業も経理も人材採用も全部やらなくてはならなくなりました。
連日連夜、休みもなく朝から晩までとにかく働き、何度も辞めてしまおうと思いました。
今でいう、完全に「ブラック」な会社でした(笑)。
とはいえ何も結果を出せずに辞めるのは悔しかったんですね。
せめて自分が辞めると会社が傾くくらいの「売上」をつくって、社長から「頼むから辞めないでくれ」と引き止められるようになってから辞めようと決めたんです。
おかしな思い込みでしたね。
ところがそんな気持ちでお客様に接すると、あまり乗り気でなかった営業がうまくいくようになり、だんだん新しいお客様ができてきた。
そうすると、そのお客様にもっと満足してもらいたくなる。
とはいえ、当時の会社では自分の判断でできることは限られています。
そこで、独立を考えました。
その頃には、会社で一番の「売上」を誇るようになっていました。
独立について社長に相談すると、最初は反対されましたが、最終的には独立を認めてくれました。
そこで賃料は高いですが、交通の便が抜群にいい西新宿でポスティング事業をスタートすることにしました。
前職では立地条件の悪さゆえに人材採用にさんざん苦労させられたからです。
それが2004年のことで、私は33歳になっていました。